岡 真理 (脚本・演出 / 現代アラブ文学))

The Message from Gaza 昨日とは違う明日をともに創るために

岡 真理(脚本・演出)

2008年暮れから翌9年にかけてのイスラエルによるガザ攻撃は、現代世界における人間性の臨界をあらためて露わにする出来事でした。

完全封鎖されたガザ地区に150万の人間を閉じ込めて、人口密集地帯に(ガザの難民キャンプのいくつかでは1平方キロメートルの土地に10万人が暮らしています)、22日間にわたり空から海から陸から、一方的にミサイルと砲弾の雨を見舞って破壊と殺戮を欲しい侭にする……。そんな、人間の想像を絶する攻撃が、しかも、世界注視の中、公然と行われたのでした。その意味でこの攻撃は、それを行う者たちの人間性のみならず、その出来事を観ている私たち自身の人間性の臨界をも問うものでもありました。さらに言えば、これら二重の意味で人間性の臨界を露わにしたこの世界の犠牲者であるパレスチナ人自身の人間性――このような非人間的状況に置かれてなお、人は人間らしい人間であり続けることができるのか――をも問う出来事でした。それによって〈ガザ〉は、〈ヒロシマ〉〈アウシュヴィッツ〉と同じく、人間性の臨界を問う出来事の代名詞となったのであり、そうであってみれば、その出来事に対し、朗読劇という(文学的)応答が企図されるのは、むしろ文学的必然であったと言えましょう。

〈ガザ〉は、1948年以来今日まで60年以上にわたって続く、果てしない「ナクバ」の歴史に刻まれた、数多の悲劇の最も新しいものの一つであり、そして、おそらく、最後のものではありません。韓国の作家、文冨軾さんが光州事件の記憶を綴った文章の冒頭にエピグラムとして掲げたように、「忘却が次の虐殺を準備する」のだとすれば、私たちは、今、ガザを忘却によって、次の〈ガザ〉への道を静かに整えているのでありましょう。

殺戮が起こったときだけ話題になっても、それが終わればやがて忘れ去られる。私たちの関心の埒外で、彼らは依然として、不正義の中に打ち棄てられ、人権の彼岸に置かれているというのに。世界の一時的関心とその後の長い無関心という繰り返しの中で、パレスチナ人はエンドレス・フィルムのように殺され続けてきました。

そうした中にあってなお、人間が人間らしくあり続けること。(「Stay Human(人間であり続けること)」とは、本朗読劇「インターナショナルズの証言」で朗読されるイタリア人活動家、ヴィットリオ・アッリゴーニ――彼は、攻撃後もガザにとどまり、そして今年4月、拉致され、殺害されました――が、ガザ攻撃について綴った自著に付したタイトルです。)ガザであれ、西岸であれ、人間が人間らしく生きることを可能にするあらゆる物理的条件を抹殺していくことで、命を奪うことなく、しかし、パレスチナ人の人間としての生を圧殺していく――。社会学者サリ・ハナフィはこれを、「ジェノサイド(大量虐殺)」に対して、「スペィシオサイド(空間的厄殺)」と名づけました。完全封鎖されたガザの状況とは、このスペィシオサイドのひとつの局面に他なりません。この暴力のまっただ中に置かれながら、それでもなお人は、いかにして、人間らしくあり続けることができるのか。

東日本大震災、そして福島の原発事故という未曽有の出来事の後で、日本の私たちは、日本のことだけで精いっぱいという状況にあるのかもしれません。では、3・11の前は? 経済不況、年間3万人もの自殺者……。そんな社会経済状況で、やはり自分たちの生活を考えるだけの余裕しかなかったかもしれません。では、その前は? バブル経済の頃は?

不思議なことです。私たちよりはるかに貧しいはずの、私たちよりはるかに困難な境遇に何十年も置かれているはずのパレスチナ人の口から、私はこれまで、「自分たちはこんな苦しい状況にあるから、自分たちのことだけで精いっぱいで、他人のことまで気にかけている余裕はないのだ」というようなことばを聴いたことはありません。

3・11のあと、ガザから、レバノンの難民キャンプから、日本の被災者に、その苦難に対する共感共苦の思い、励ましのメッセージがたくさん寄せられました。それは、自分たちの存在をこの地上から抹消しようとする暴力によって、繰り返し攻撃され、殺され、家もキャンプも破壊され、そのたびに瓦礫をかき集めて立て直しては、また破壊され、そういったことを文字通り何回も繰り返してきた難民たち、肉親を、友人を喪う痛み、家を破壊され、故郷を喪失する痛みを知り尽くした者たち、その彼らから贈られた思いです。私たちはこの贈り物に、どのようにお返しすることができるのでしょうか。

ガザ攻撃から半年後、来日したガザのNGOのスタッフの方が、ガザの住民の言葉を伝えてくれました。「攻撃されているときの方がまだ良かった」というのです。なぜなら、「あの頃は、世界が私たちのことを気にかけていてくれたから」。

攻撃が続いているさなか、ガザ関連の集会は、ほんの数日前のメール告知だけで、当日は、会場に入りきらないほどの、定員の2倍、3倍の人々が会場に駆けつけました。ガザで起きている、想像を絶する出来事に、みな、何か自分にも出来ることはないか、必死で探し求めていました。でも、現在進行形の圧倒的な破壊と殺戮を前に、私たちがミサイルを押しとどめることはできませんでした。でも、次の虐殺を起こらないようにすることは不可能ではありません。自分に出来ることなどないのだと無力感に打ちひしがれている方がもし、いらっしゃるなら、それは間違いです。今、私たちに出来ることはたくさんあるのです。忘れないこと、記憶すること。そして、絶望の淵で、人間であり続けようと闘っている人々に、私たちはあなたたちのその闘いを忘れてはいないのだと伝えること…。

知ることは、出来事が忘却の穴に葬り去られるのを防ぐ必要条件ですが、しかし、ガザ攻撃があったと、ただ知っているだけでは決して十分ではありません。記憶することが、今日までとは違う明日を創るための力となるような形で記憶するのでなければ。

しかし、そうであったとしても、私たちはまず、知ること、そして記憶することから始めなければなりません。〈ガザ〉から3年目の12月に、ガザの朗読劇を上演すること。ガザの人々の叫び、思いに、私たちの内臓を、私たちの舌を、私たちの心を振るわせ、私たちの「肉声」で表現すること。それに耳を澄ませること……。

この朗読劇は、たくさんの、さまざまな方々の協力によって実現しました。会場に足を運ばれた方々、そして、運びたかったけれども諸事情で叶わなかった方々の思いで実現しました。それは、3年たっても私たちはあなたたちのことを覚えているよ、忘れてはいないよ、というメッセージにほかなりません。嬉しいことに、NHKのラジオ・ジャパンがアラビア語放送でこの朗読劇のことを報じてくれることになりました。ガザの人々が、この朗読劇のことを知ったら、喜んでくれるのではないでしょうか。役者であれスタッフであれ、観客であれ、今日、この場でこの朗読空間に身をおいた私たちは、ガザの人々からもらった贈り物に対して、ささやかですが、お返しをできたのではないか、と思います。

さらに、京都市国際交流会館の東日本大震災被災地支援チャリティ企画の一環である本公演の収益は、被災地支援のために寄付されます。日本の被災者へ寄せる思いを具体的な支援という形で届けることのできないガザやレバノンの難民キャンプの人々に代わって、その思いをこのガザ朗読劇によって、被災地の具体的な支援に繋がる形で届けることができます。そのこともまた、ガザの人々に喜んでもらえるでしょう。

私たちの朗読劇――朗読する側も、また、それを聴く側も含めて――それ自体が、ガザの人々への贈り物となり、被災地の支援につながり、被災者へのガザの人々の思いを被災地へ届けるものとなる。これまでガザの朗読劇の公演を重ねてきた私たちにとって、望外の喜びです。

このような稀有な機会を与えてくださった京都市国際交流会館に心からお礼申し上げます。そして、今日、この場にご来場くださいましたみなさまのお一人お一人の思いに、さらに、さまざまな形でこの公演の実現に協力してくださいましたみなさますべてに、心の底から感謝申し上げます。

これは、私たちみんなの朗読劇です。この朗読劇が、忘却に抗して、昨日とは違う明日をともに創るための、その第一歩となることを願っています。