岡 真理 (脚本・演出 / 現代アラブ文学)

2008年から2009年にかけてガザが攻撃されているとき、空爆下のガザがいったいどうなっているのか、日本のマスメディアはほとんど報道しませんでした。

ガザのアズハル大学文学部教授、サイード・アブデルワーヘドさんは電気も途絶えた中、自家発電機を使ってインターネットで、殺戮と破壊のさまを日々、電子メールで世界に向けて発信し続けました。

私はそのメールを受け取るそばから日本語に翻訳し、複数のメーリング・リストに流しました(一連のメールはその後、一冊の本にまとめられ、『ガザ通信』というタイトルで青土社から出版されました)。でも、それで十分とはまったく思えませんでした。

アラブ文学研究者として自分に何ができるのか。ガザで起きたことはホロコーストではないけれども、ホロコーストを可能にしたのと同じ、他者の人間性の否定です。文学こそが、文学だからこそできる形で、その問題の根源に斬り込むことができるのではないかという思いがありました。

そんなとき歌手の沢知恵さんの弾き語り「りゅう・りぇんれんの物語」を聴きました。日本に強制連行された中国人、りゅう・りぇんれんは、ある日、脱走し、日本の敗戦を知らずに戦後も10年以上、北海道の原野を独り逃亡し続けました。詩人の茨木のりこさんがその物語を一大長編詩に描き、その詩を沢知恵さんがピアノで弾き語りしたものです。弾き語りと言っても、ピアノの伴奏は最小限に抑えられ、実際は朗読です。朗読は1時間以上にわたりました。でも、朗読が始まるや、語りの世界に身も心も深く惹きこまれました。全身全霊で朗読する沢さんの語りを、観客もまた全身全霊で聴きました。稀有な体験でした。そのとき私は、人間の肉声というものがもつ力、その可能性に打たれました。ガザをテーマに朗読劇をつくりたいという思いは、そこから生れました。

ガザについて「朗読劇」をつくる、という着想を得たその瞬間、私の中で、それまでバラバラに存在していた、ガザをテーマにした複数のテクストが1本の糸でつながり、複数のテクストをコラージュするというこの朗読劇のアイデアは、その時点で明確なものとして固まっていました。ひとつは、ガッサーン・カナファーニーの短編「ガザからの手紙」(1956年)。ガザの難民の青年が、アメリカに渡った親友に向けて書いた手紙、という形で書かれた作品です。大学3年生のとき、私は、その春休みに訪れたエジプトで買い求めたカナファーニーの短編集に収録されたこの作品を読み、辞書を引き引き、一人で日本語に翻訳していました。

それから20年あまりがたち、2003年、イラク戦争開始の直前、ガザでイスラエル軍のブルドーザーにレイチェル・コリーさんが轢殺されたという報に接したとき、思わず、なぜレイチェルさんは逃げなかったのか、なぜ…?という思いが溢れました。そのとき、その問いは、「ガザからの手紙」で語り手の「ぼく」がナディヤについて言ったのと、まさに同じものであることに気づきました。レイチェルさんはガザから、アメリカにいる家族や友人たちに何通かのメールを書き送っていました。翻訳家の山田和子さんがそれを日本語に翻訳され、ネットに公開してくださいました。カナファーニーの「ガザからの手紙」、そして、レイチェル・コリーさんの手紙。同じ問いを喚起する、半世紀のときを経て、ガザから外の世界に発信された2通の手紙。私には偶然とは思われませんでした。私はそれについて、「ガザからの2通の手紙」と題する小文を書きました(『季刊 前夜』創刊号所収)。

そして、アブデルワーヘド教授の『ガザ通信』。攻撃のさなか、教授が日々、ガザから発信するメールを私自身が日本語に訳して、ネットに流していました。(さらに、地上戦を前に、ガザに留まることを選んだインターナショナルズの証言も、私は訳していました。)

朗読劇をつくりたいと思ったそのとき、私の手元には、私自身が深く関わったこれらのテクストがありました。いずれも、ガザからの外の世界に向けて発信されたメッセージです。50年という時をまたがって、ガザから、外の世界に向けてメッセージが発信され続けているのです。これは、おそらく、偶然ではないのです。カナファーニーの作品の舞台がガザであったのも、レイチェルさんがガザで殺されたことも、そして、あの想像を絶する攻撃がなされたのがガザであったというのも……。

カナファーニーの作品は「文学」ですが、レイチェルさんやアブデルワーヘド教授のメール、さらにインターナショナルズの証言は、それ自体が「文学作品」というわけではありません。しかし、これらをコラージュして一つの作品にすることで、そして、それが肉声で語られることで、朗読劇という「文学」作品、〈アート〉になるのだと思います。そして、「文学」というアーティスティックな表象を通して、私たちが、ガザに、パレスチナに、パレスチナの人々に出会うことが、たいせつな意味をもつのではないかと思います。